代々のかがみ1 代々乃かがみ

代々のかがみ1 代々乃かがみ

はしがき

 年を経るにつれ、なさねばならぬ仕事のみ多くなつてくるにも拘らず、どれをも果しきれず中途になつてゐるのであるが、そのうちでもおろそかがちになるのは組先に対する歴史的考究とか、供養霊祭などの義務である。かうした事はなさずとも納税公課の負担などのやうに別に他から云々されるべきものでもなく、他人に迷惑の及ぶ筋合のものではないが、少くとも生を租先から享けて、然も組先の残してくれた國土に生活してゐる以上は、子孫として多少なりとも余裕があつたとしたら幾分づつでも遂行してゆかねばならぬと思ふ。系統的な組先を持たぬ放浪者であるならばいざ知らす、貧しいながら家庭があり記録

が存在してゐるとすれば、忘却するとか顧みぬとがは不孝この上もないことと思ふ。私が今度この冊子を特に刊行しようとしたのは長い間放任してあつた伝来の記録の整理の一端を肉身をはじめ親族各位に披露申しあげておきたいのと、一つには祖先の霊への手向けのため、一つは私自身の生涯の仕事の責任解除のためであるに外ならないのである。各代祖先當主の履歴の縷述に就ては今少し詳しく書きたいとも思つたが、多忙なままさうもゆかずまたさうかといふて調査報告式のものをこしらひたくない考から、祀父勘左衛門が古書類から摘録しておいてくれた荒筋だけを載せる程度にとどめておいたのであるが、多少は不満の点もないではないが、そこに縹渺(ひょうびょう)としたある幽しさがあるとあきらめてもらひたいのである。實際を云ふとわが杉本家

(旧姓石井)の系譜に就てもつと的確に謹明しうる材料があつてくれたなら、少くとも徳川家康の入國以前のすべても明瞭になることであらうが、どうも公表しきりうるまでの自信ある継続した何ものもないので、二十七代以前の傳記は全く載せぬこととした。

昭和六年十月

 旧姓石井杉本家四十代の孫 寛一 識るす

目録

 題字  坂井久良岐先生
 はしがき    1
 杉本家系譜略表 5
 二十八代    7
 二十九代    9
 三十代     11
 三十一代    13
 三十二代    17
 三十三代    21
 三十四代    25
 別  録    27
 三十五代    31
 三十六代    35
 三十七代    39
 三十八代    45
 三十九代    51

二十八代

寛永十三年丙子六月十四日没
勘解由種繁
法名後酉院繁苗道榮居士

 二十八代

 当代天正十八年(1590)七月以前は小田原北條の領であつたが、同年七月以降は徳川家の領となる。
 この改革事務一切に関与したのである。

一、慶長三年(1598)から地頭逸見四郎左衛門の知行となる。
一、慶長十二年(1607)丁未八月十八日辰已の大風で圓乗院坊舎悉ぐ吹き潰さる。依て愛宕山境内に移る。
一、慶長十六年(1611)辛亥六月鎮守氷川大明紳本社上家再興。
一、寛永三年(1626)寅三月一日 百姓五人組順序を定む。
一、寛永十年(1633)三光院は杣保郷青梅山金剛寺の客末となる。

二十九代

生年月不明
元和元年(1615)乙卯六月廿八日大阪にて戦死

 勘ケ由貞信
 法名 顯宗院源湧教誉居士

 当代地頭逸見四郎左衛門と共に大阪陣に首途の砌、家内婦女子別れを惜しみ悲嘆したので左の一首を残して出発したといふ。 

 なげくなよまたもやべへ返り咲き   
   敵に勝員をかちて見せなん

三十代
生年月不明
 正保元年(1644)申八月九日没
 勘左衛門守邦
 法名慈性院恵日浄現居士

 一、寛永十七年(1640)庚辰三月十七日尾張中納言殿鷹野となる。
 一、寛永二十一年(1644)甲寅三月三日狭山附近及武藏野鷹野となつたので人馬を差し出す。
   時の尾張殿を松平五郎太と呼んで、前澤村に殿舎を新築して、勝樂寺にあそんだ折り、松を一本手植したが、
   現在でも五郎太の松と呼んでゐるのがこれである。
 一、明暦二年(1656)四月入間郡北野村天神の御神体納置と水晶の玉開扉之節底出来たについて応分の寄進をする。

三十一代
 生年月不明 
 天和二(1616)癸亥年十二月三十一日没
 勘左衛門守胤
 法名 後昭院阿啼浄光居士

一、当代は寛文・延寳に亘つて庄屋役を勤む。
一、延宝二年(1674)甲寅十二月 地頭逸見四郎左衛門上知となる。
一、寛文九年(1669)酉三月新田畑検地に付八王寺住代官岡上次郎兵衛、近山五左衛門、同手代林惣左衛門、石黒次郎右衛門等出役の助案内す。
  当時字砂の川より南方を都て新田と称し川北横道迄を砂と呼んだ。
一、延宝二年(1674)甲寅八月 新々田畑検地に付代官中川八郎右衛門並に手代志村茂左衛門、宮崎藤七等を案内す、
一.延宝五年(1677)丁巳三月 本田畑屋敷検地に村八王子佐代官設樂孫兵衛並に手代櫻井彌左衛門、内山太兵衛、
  代官今井九右衛門並に手代矢崎惣右衛門吉野加衛門等に本村再検地に付案内す。
一、延宝五年(1677)迄は將軍家に御傳馬並に六尺等百姓自身出勤してゐたが、同年六月から買上となりたれば,
  以来伝馬は伝馬宿入用として割宛により納める様になつた。
  但 割宛は高百石に付米六升,六尺は始末米として百石に付二升。

一、貞享元年(1684)甲子三月猪、鹿、狼,兎出没に付,箱根ケ崎から廻り田村迄申合せ代官今井九右衛門に鐵砲備用を願ひいづ。
一、貞享五年(1688)辰七月廿一日組頭市兵衛不都合之廉ありしにより證書をとる。
一、延宝五年(1677)己三月本村検地の際御霊明紳に中田六畝廿歩を寄附し永代除地とす。これよう御霊明神を御料明紳と呼ぶ。

三十二代

 承応三年(1654)生
 享保六年(1721)辛丑六月九日卒
 杢右衙門守直
  行年七十歳
 法名寳壽院圓室直往居士

一、当代は天和、貞享、元禄の間に於て名主役を勤む。
一、元禄元年(1688)辰年十一月代官西山六郎兵衛の時庄屋名主の給米(現今の俸給)定めらる。
  百石より百五十石迄米二俵、二百石より三百石迄米四俵,四百石より六百石迄米五俵.六百石より千石迄米八俵、千二百石より千五百石迄米拾俵。
  この時代官の給料も定められたが略す。
一、元禄二年(1689)己六月代官細井九右衛門へ村鑑明細帖を呈出す。
一、元緑三年(1690)午十一月代官石川傅兵衛の時金銀吹替に付慶長金其他を従来の歩合を以つて引換の達を受く。
一、元禄三年(1690)二月八日百姓助右衛門法度違犯に村證書一通差出さす。
一、元禄三年(1690)三月代官細井九右衛門検地に付案内す。此の折り宅地続きの中畑四畝六歩は延宝五年の検地の時
  御藏屋敷と称し除地になってゐたのを高入とす。
一、元禄年中諏訪山外七反歩奈良橋分に属す。
一、元緑四年(1691)未十二月多摩郡二十四ケ村、入間郡拾六ケ村、武蕨野境論起り奉行七名より戴許状下る。
◎一、寛永三戌年(1626)四月代官林甚五右衛門へ村鑑明細帖を呈出す。この時本百姓三十九軒水呑一人。馬三十匹。
◎一、寛永四年(1627)小澤溜池用水引用に付清水村より連印の約定書を取る。
◎一、寛永六年(1629)三月廿日南地武藏野境の方角見通し定め連印とる。
一、正徳元年(1711)六月十一日 代官林甚玉右衛門巡観あるため道路、橘梁の普請に付達あり。
一、正徳二年(1712)五月切支丹禁制並に火付等の高札代官比企長左衛門より下る。
一、正徳三年(1713)四月廿六日代官比企長左衛門より法度、仕置等の箇條の下知ありたり。
一、正徳三年(1713)十月入間郡堀口村丸峰地藏堂建立に付発起施主となる。
  本堂の地藏菩薩の像は西樂庵の本尊と同作である。
一、享保二年(1717)十二月尾州家鷹合札下る。
一、享保二年(1717)十月円乗院境内論訴に付内堀名主半十郎外二人に係る件落着證書取置。
一、享保三年(1718)十二月代官石川傳兵衛より鐵砲所持人の有無に付嚴重の沙汰ありしに付小前一同より連印の請書を差出さす。
一、享保三年(1718)大沼田新田開登願下げ當家個人の所有地とす。この町数十二町八反歩高十五石余。字宅部山と呼びしといふ。
一、享保五年(1720)八月 凶作に付代官朝比奈権左衛門へ金穀借用を申し出づ。此の村拾七ケ村。
一、当代元禄八年亥六月廿一日湯殿山へ登山。
一、元緑十四年(1701)辛己五月朔日西樂庵地藏堂建立。
   附記当代の勤役中代官七人の更迭ありたり。

三十三代
貞享三年(1686)生
寛保三年(1743)癸亥玉月五日没
勘左衛門守近(杢右衛門とも呼ぶ)
行年六十歳
法名 清掠院阿讃直證居士

一、当代は享保年間名主役を勤む。
一、享保六(1721)丑年三月代官石川傳兵衛より鐵砲禁制の高札下る。
一、享保六年 代官石川傳兵衛より疫病流行に付施藥あり。食物其他に付注意の達あり。
一、享保三年(1718)代官上坂安左衛門の時世上金銀不足に付不自由を生せしため吹替す。
一,享保七寅年(1722)三月代官朝比奈権左衛門へ朝鮮人家朝に付圓役金を上納す。金一両、永二百七十文六分,銀八両一分二厘。
一、享保八年(1723)卯十二月廿日代官岩手藤左衛門達、珍妙に付特記す。
  高さ二尺一二寸程ノ大犬御用二付關八州ノ内ヨリ吟味致シ可尋出尤モ女犬ニテモ別段大ナルハヨシ云々
一、享保八(1723)卯十二月廿日代官岩手藤左衛門の達一通『當夏中逸見分候武野芝地開発割渡し之儀に付被仰渡之儀も有之候間
  一ケ村にて名主組頭長敷百姓一人づつ乍連来る十四日大岡越前守御番所に可罷出候若於不参者可爲越度候間可得其意』云々
一、享保九年(1724)六月小澤池大破に付人足二百五十人掛る。
一、享保九年(1724)六月十六日より小澤其地大割初まり小前一同に割宛す。此段別九町六反一畝。
一、享保十三年(1728)甲寅正月八代將軍日光参詣に付助郷人馬の沙汰ありたり。
一,享保十四年(1729)卯六月尾州家鷹場法度條目発布ありたり。
一,享保十四年(1729)栗材必要に付山林及び百姓持山取調届出づべき沙汰ありたり。
  叉同年米相場下落に付武家百姓町入難澁せるに付一石に付銀四十二匁以上に買わねば罰金に処せらるる旨の達出づ。
一、享保十八年(1733)三月代官岩手藤左衛門から、甘藷、唐の芋試作に付種芋下附せらる。
  同年村名の書き方区々に付取調方の達ありたり。
  例へば 後垣外村、後ケ谷村、後ケ谷戸村、宅部村,焼部村、内堀村等の如し。
一、当代享保十四年(1729)七月十ニ日湯殿山へ登る。

三十四代

宝永五年(1706)生
元文三年(1738)戊午四月五日没
勘左衙門貴利
行年三十一歳
 法名不染院蓮葉露光居士

 当代は病弱の身をもち享保の半ばから元文の初年頃迄名主役をつとめたが、早世のため見る程の仕事もしてゐない。当代の遺児なほ幼少であつたおめ、廻り田小町家に嫁した妹がその夫と共に戻って名主を代役したのである。
一、享保十八年(1733)七月十三日から寛保二年(1742)迄上坂安左衛門の支配。
一、元文二年(1737)七月 私領地頭溝ロ佐左衛門上知となり、同時に内堀私領分を宅部村と更称するやうになつたのである。

別録

明和七(1770)庚寅二月二十八日没
孫七郎英雄
法名常願院秀山英雄居士

 先代平重郎林志編考の当家々譜中に孫七郎英雄を三十五代の当主として記入してあつたが、幼主盈亭幼少任にたへぬため補弼(ほひつ)のかたちで名主役を勤めたのであるから、家系の当主として、は取扱ふべきでないと思ふ故、単にここへは別録として載せておくが、生涯当家のため尽力し終つたに対しては、子孫として敬意を表しておく。
 さうした恩償は後に内堀隠居とあがめて三十五代の租盈平が五人扶持を割いて晩年を全からしめたによつても果されてゐたものと云ふてよいと思ふ。

一、天文五年(1740)申八月江戸五島屋次郎右衛門.和泉屋平八,熊澤屋市郎兵衛等玉川上水路に通船の出願があつた。
一、延享二年(1745)寅二月代官伊奈半左衛門巡硯の沙汰があり、同年西樂寺池を堀るため七畝差出す。

一、延宝四年(1676)内堀霊光山当覚院へ護摩座一面寄付す。
一、宝暦二年(1752)三月一日尾州家鷹合の增札下る。
一、宝暦三年(1753)八月大出水にて、廻田谷観音堂押し流されしため,同寺を上ノ屋敷へ移す。同時また内堀小澤に彌佗堂も流されしに付台へ移す。
一、宝暦七年(1757)二月尾州家當主山ロへ來参に付人足八人馬ニ匹出す。
一、宝暦八年(1758)三月代官伊奈半左衛門より猪鹿おどしのため鉄砲三丁願下ぐ。
一、寛保二年(1742)代官大谷杢兵衛となる。
一、伊勢参宮し太々神楽を行ひ高野山へ参ず。